不確実性を受け入れると口では言っていても、「成功か失敗か」の不確実性は受け入れられているだろうか?成功に執着しているから、正しいやり方にこだわり、正解を求めてしまうのではないか?外部の正解を探し求め、権威の意見を正しいと信じる。そのような姿勢は不確実性を受け入れてると言えるのか?

ジークアクスでファーストが気になったので、未読の小説版を読んでみたが、ジークアクスの世界観は、小説版にも影響を受けているのでは?と感じた。シャアとシャリアの共闘とか、アムロがいない世界線とか。個人的に小説版の結末は、ニュータイプのあり方を示すという意味で、映像版よりもよい終わり方だと感じた。

妻と近くの宅配ピザ屋が潰れた話から、もう自宅でピザを頼むことはないかもなぁという話をしていた。子供が3人同居していた頃は、定期的にピザを取って夕食を楽していた。しかし今では息子1人になり、我々もそれほど食べないので、ピザ取るほどでもない。子供たちが帰省すると、ピザ取るより外食にいくので頼む機会もない。宅配ピザを家族で食べるという光景も、懐かしいものになりつつある。

思えば、2005年くらいから、アジャイル界隈でブームになったジャグリングは、身体感覚を研ぎ澄まし、集中力を高めるという意味では瞑想に近く、フィードバックサイクルを高速に回転させるという点ではアジャイルそのものであり、実はものすごくよくできたトレーニングツールだったのではないか、と気付いた。ちゃんと記事書いていた自分偉い。medium.comアジャイルな仕事の道具箱/アジャツール-第11回-ジャグリングとアジャイルの思いがけない共通点-6ccd2276a7d2

妻が勤務する某国内大手企業が、社内LTをやったというアナウンスがあったと今日聞いた。LTの始まりから見てきた自分にとっては、OSSコミュニティで生まれたハッカー文化が、日本の大企業社内で取り入れられたという事実に感動した。そしてそれまで25年もかかったということに、「新しい何かが社会に受け入れられるには時間がかかる」ということを自らの体験で語る事例として、アジャイル開発とともに個人として体験している話すネタがまたできた。

パタンランゲージの多義性を整理したい。ランゲージを作ることに着目点するのか、クオリティを生成するために使うことに着目するのか。暗黙知を言語化することに着目するのか、心の内の理想を言語化するのか。今の良さを明らかにするのか、未来のありたい姿を明らかにするのか。不変性に注目するのか、コンテキストでの有効性に注目するのか。当事者が主体なのか、当事者ではない専門家が主体なのか。全体性を伴うのか、部分なのか。問題解決なのか、深い感情からうまれているのか。パタンランゲージというものには全て含まれるのだけど、だいぶ断片化しているので、この、あたりの全貌を整理し直さないといけないな。

📚 建築 × パタン・ランゲージ × 参加型デザイン

今週末、特別なイベントがあります。


「ユーザーの声を起点にした学校づくり」

それは単なる建設ではなく、

“人と場が共に育つ"デザインの実践でした。


世界最大のパタン・ランゲージ事例とも言われる

盈進学園東野高校の回想録📖

小さな美しい村』出版記念イベント

amzn.asia/d/bDvoXJY

🎞 記録映画『東野を翔る』上映

🎤 有識者によるパネル・ディスカッション

🗓 5/31(土) 開催!


📝 申込はこちら

forms.gle/wHeugWN81…

#パタンランゲージ #建築 #参加型デザイン #ChristopherAlexander #小さな美しい村 #東野高校 #人間中心設計 #Threadsイベント紹介

シンプルなツールだったはずが、どんどん付加機能がついて肥大化するのは、よくある光景。自然の摂理としてエントロピーがどんどん増大していくから、それをシンプルに保つのって自然に逆らうから大変なんだよね。だからこそシンプリシティは重要なのだし、エントロピー増大に抗うのが生命である、とも言える。

結局のところ、自分を救いたいから、色々とやっているのであり、「世界を救うことは、自分を救うことでもある」という全体性に基づく理解をしている。逆に言うと「自分を救う」ことは「世界を救う」ことにもなるので、そこに気づけば、どこから始めてもいいということになる。

書籍のサンプルコード片をスクショ取ってAIに渡すと、書かれてない部分も含めて生成してくれるのは便利だよなぁ。写経しないというデメリットはあるが、新しい学習方法として、一度書籍を全部実行可能なドキュメント化し、実行可能を確認した上で学ぶというアプローチもあるのかな。本→実行可能なドキュメント(Jupyter Notebook的なもの)→実行確認→写経→再度実行みたいな。

人が死ぬと、その人の中にある智慧が失われるのだなぁ、ということを実感した。すべてをダンプするのは難しいが、少しでも外に出しておきたいニーズが自分の内側にある。言語情報ですべては難しいものも、外在化できるだけでも意味がある。その人がどのように形成されたのかというプロセスも含めた外在化ができるといいのに。多分自分史を書くしかないんだろうけどなぁ。

娘が今年入った会社の新卒研修でオブジェクト指向とかJavaとか教わっている。今週はJUnitも教わるそうだ。「娘が生まれる前からオブジェクト指向で設計しJUnitを使ってTDDしてた」んだけど、まぁ会社の研修資料はなかなか充実していてよさそうだし、講師にわからないところをガンガン質問して聞いてるみたいなので、このまま進んで欲しい。しかし、子どもに一切プログラミングとか教えてない(素振りを見せたが興味を持たなかったのでやめた)のに、こういう道に進むのが面白い。

やはり、猪木はいいなぁ。多分見てる世界がプロレスより一段高いからかな?

sports.yahoo.co.jp/column/de…

昔からBIなら断然猪木なんだけど、ONなら長島でなく王なんだよな。感覚派という意味では長島になると思うんだけど、なぜ王なのか言語化できてない。現役時代知らないのに、ONの世界とか本借りて読みまくってたなぁ。

「ムダ」って言葉、使わない方がいいかもな。ムダなんて、本当はないんだけど。ムダという言葉は極端な合理主義を喚起する気がする

最近みつけた『モノクロのふたり』がなかなかよい。劇中の挫折シーンがこれまであまりないが、「自分らしさを活かす」という意味で今っぽいのかもしれない。 shonenjumpplus.com/episode/1…

「みんな違って」と「みんないい」をANDにできるかが鍵なんだけど、「理解できないから嫌だ」とか「こっちはいいけど、そっちはダメ」とかで「違い」を超えられない。一番超えられてないのは「自分はありのままではいけない」という自己否定から生まれているのだが、このことを自覚しない限りは超えられない、というのが自分の体験からの仮説。

うーん、今年はいろいろな意味で人生の転機なのだなぁ。物事が大きく変わり始めてる。。。いいこともわるいことも。。。

できないことを叱責したり批判するのでなく相手が「そうせざるを得ない」状況を想像し、自分をなくして共感することができるかどうかが鍵。「誰から何かをできない」ことに自分が反応しているうちは共感はできない。

自分はたまに「哲学的」と呼ばれることがあるんだけど、哲学苦手なのでしっくりこないんだよなぁ。個人的には実践の体験からの学びと、知識との結びつきからくる気づきだったりを言葉にしてるだけなんだよなぁ。

ChatGPTによると「哲学は単なる抽象的な思索だけでなく、「どう生きるか」「何をなすべきか」に関わる実践的な知でもあります」とあるのでずれてはいないけど。

デスクトップのMacにつなげていたWebカメラが壊れたので、新しいのを買ってみた。思えばコロナ前からリモートワークやるために買って使っていたので、もう10年近く経つのかな?よく動いてくれました。

つい、成功事例を求めてしまう人は、自分の感性を信じることができない、誰かのお墨付きが欲しい、自分で説明できない、自分でやってみるのが怖い、という恐れが根っこにあるということに自覚的になってみよう。

その昔は「電波」「ポエム」と呼ばれていた表現たちは、感性で捉えたものを、なんとか他者に言語で伝えようとしていた。たとえ、その時は論理的には説明できなかったとしても、感性で捉えたものを信じて伝えようとした努力の証であった。感性で捉えたものは時を超える、というのが自分のいまの仮説というか結論。

明日の夜に、『小さな美しい村』で取り上げている、パタン・ランゲージの事例である東野高校の建設から、AI時代のプロダクト開発に何が役に立つかを考える講演を行います。40年前の事例ですが、そのエクストリームぶりにはきっと皆さん驚くはずです。たっぷり時間があるので、質疑応答なども含めて皆で一緒に考えることができればと思います。まだ参加登録できますので、夕飯食べながら気楽に聞いて頂ください。

mamezou.connpass.com/event/351…

試しにAIに完全お任せで、Rubyでエイプリールフールネタを作ってgemに登録するまでやってみてわかった、AIによるコード生成と成果物への自信の関係性についての気づき。

note.com/kkd/n/n90…