頼まれもしないのに、次から次へと試したいアイデアが勝手に湧いてくるのが、その人がその時本当にやりたいことなんだろう。アイデア自体はさほど重要ではない。「うーん、うーん」とひねり散らかしてなんとか押し出すアイデアも、アイデアそのものよりも、その極限まで絞り切る体験が大事なのだろう。いずれも、その人がどんな体験をしているかが重要で中身はさほど重要ではない。

言葉は「ラベル(シニフィアン)」であり「中身(シニフィエ)」は別にある。「中身」をよりよく表現するための「ラベル」は重要であるが、文化によってその「ラベル」は変わる。「ラベル」にとらわれずに、相手の言葉の「中身」をわかろうとし合う交流こそが大事だなぁ。

生成AIの台頭で、『パタン・セオリー』で書いているように、専門家(アーキテクト)の職能は、職人としてのスキルを持ちつつも、利用者(当事者)が参加型で自ら創造できるように人をガイドすることがメインとなる世界観がやってきた。そして関係者にのみならず世界の「生命」を輝かせるために奉仕する。

StudyPlusで自分で教材をQRコードで登録して記録できることをようやく知った。これで練習がますます捗るぞ〜。

Kindle Direct Publishing の仕様が変わったのか、約一年前に入稿してOKだった原稿が、今アップするとエラーになってしまう。凄い困ってる。。。原稿を今はいじれないので余計に困ってる。

SUUNTO Race 2が発表されたが、同時に発表されると思っていたVertical 2が発表されていないのなんでだろう? 個人的にはAMOLED版のVerticalを待っていたのでそっちがほしいんだけど。といっても膝を痛めていて走れないので買っても宝の持ち腐れになるかもしれないが。apac.suunto.com/ja-jp/pro…

『グラスハート』は演者自らの演奏に驚いたのだけど、マネージャ役やってた唐田えりかさんが主役やってた『極悪女王』もプロセスを自ら演じていてその本気レベルに感銘を受けていたのを思い出した。どちらもNetflix制作なんだな。予算持ってるというのが強いのかなぁ?

グラスハート見たが凄かったな。みんな練習して演奏吹き替えなしなんか。何より佐藤健の執念が一番凄いと思った。本気が周りを変えていったのかな。妻は原作ファンなのでドラマ化した事自体を賞賛していた。

ネットが繋がらないところに宿泊してたら、スクラム&XP祭りのプロポーザルだし忘れてた。あららー。

パタン・ランゲージの最大事例を描いた『小さな美しい村』の読書会が開催されるというので参加してみた。デザイン前段の序章となる1章から内容が濃くて、書籍化の過程で何度も読んでるはずなのに、改めて重要なポイントを参加者と整理することができました。言語化以前のふわっとしたイメージが、自身で自覚し、腹落ちし、言語化できて、他者に伝えられる明確なビジョンに発展するまでのプロセスでした。本はこちら→ amzn.asia/d/8yNWMb7

科学か科学じゃないか、で分離しているうちは、世界は一つになれないだろうなぁ。違いに目を向けるのでなく、共通項に目を向けないと、人はつながれない。これも極からの揺り戻しなんだろう。中庸の世界はまだ先なのかな?だいぶ以前よりいいところまで来てると思うけど。

妻が安野さんの奥様のことをしきりに推してくる。奥様のエピソードは確かに妻に近いオタクな波動を感じるので共感するのだろうか?

23年前のゼンリンの住宅地図でうちの町内の様子を妻と楽しんでいた。住宅地図は高い(27.5K)のだけど、戸建てならどこに誰が住んでいるかがわかるし、時を超えて「あの時は誰が住んでいて、今は誰が住んでいる」とか「田んぼだったけど、住宅地になった」とかの差分がわかって非常にいい。何よりB4サイズの上質紙の手触りと大画面がとても心地よく、これはデジタルでは得られない利点だと二人で納得していた。

最近、少しづつパタン・セオリーが動いてきていて嬉しいです。パタン・セオリーの次に、ぜひ『小さな美しい村』も読んでください。こちらはパタン・セオリーで書かれている原理原則の具体例・実例として捉えてもらえるとわかりやすいと思います。この本の凄いところは、施主であった著者の細井氏が求めていたものと、専門家であったアレグザンダーが実現しようとしていたものの見事な一致です。更にはアレグザンダーだけでは到達できなかった感性(Aシステム)と合理性(Bシステム)の統合についても大きな示唆があります。amzn.asia/d/1BmZEVd

「AI生成の画像か、そうでないかがぱっとわかる」というのは、もしかするとAI生成には欠けている、人が作るからこその「質」があって、それがあるかないかで判断しているのかもしれない。それが何かはわからないが。「15の幾何学的特性」の観点でAI生成の画像と人が描いた画像を比べてみると、もしかしたらわかるんかもしれない。そうか!AI生成画像のミラーテストすればいいのか!!

『タコピーの原罪』、くっそ重い話なのね。。。。それぞれの関わる人達の「そうせざるを得ない」連鎖を感じる。サマータイムレンダラみたいになるかと思ったら、早々に路線変わったので、よりそれぞれの関係性に向き合わざるを得ない。

Kent beckに会って、XP白本の参考文献だけでプレゼンした話とか、パーマカルチャーの話とか、小さな美しい村の話とか、自己変容の話とかしたかった人生だった。

「自律」と「他律」のどちらがあってもいい、という状態になって初めて、本当の全体性が生まれるのだろう。「自律してなければならない」「他律はあってはならない」という極に振れた状態は中道ではない。その過程においてどちらかに振れることはあってもよいけど、どちらか一方が正で、どちらかが誤とする行為は二元論の罠にはまっている可能性。

www.nikkei.com/article/D…

駐車場を車中泊用として貸すのか。田舎の駐車場が広いコンビニとかはいいね。エンジン切らないといけないので、ポータブルバッテリーが必需品になるけど、充電させてくれるのはいい。駐車場2台分だと、小さい車でテント張る人とか出てきそうな気もしないでもない。

環境保全に関して過剰に反応的になる人をたまに見かけるけど、それは薄々本人が正当化してることを自覚しているけど、認めたくないからではないだろうか。

自分の立場だと、Agentic AIでこれまでアイデアあっても、作るのを諦めてきたものが一気に現実化させやすくなってほんとラッキーな感じなんだよな。

もうひとつ、ジークアクス最終回で感じたのは「自由」について。マチュは様々な囚われの人生の中で、自由を求めていた。偶然のジークアクスとの出会いをきっかけに、様々なものを自分の意志とは関係なく失ったりもしたが、後悔せず前に進んだ。自由とは、物理的なものではなく、自分で自分を縛り付ける内側の鎖から解放されること。どんな状況でも、前を向いて進むこと。自由とは生のあり方であり、自己肯定は、人生の肯定、世界の肯定に繋がるのだなぁとあらためて。

ジークアクス最終回を見ました。二次創作として大変面白かったです。本作中のニュータイプという存在は、共感能力が飛躍的に増大し、本来なら人と人の分離を統合に導く世界の先駆者になるはずなのに、なぜかニュータイプ同士が共感でつながるのでなく、思想によって対立し、戦争の道具として消費される、あるいは人間を信じきれずに絶望する悲劇的な存在として描かれてきました。これは人間が持つ共感能力が、人が生来持っている生存本能、痛みの回避行動によってうまく機能できない様子を表していたように思います。その最たる象徴がシャアという存在でした。

しかし本作の主人公であるアマテ(マチュ)は、生存本能を超えて、共感能力(愛)によってシリーズ中でおそらく初の「不殺の主人公」となりました。相手への共感と信頼によって世界を肯定しました。この世界線のシャアとララアは、幾多の世界線を超えてようやく平穏に包まれました。

今リアルタイムで世界が争いの真っ只中にありますが、本作は「人間の可能性を信じたい」人々が生み出したパラレルワールドである、という気がするのです。

エネルギーを放射するのでなく、抑圧せずに、一点に集中させるために、抑圧せずに全開放してから少しづつ一点に絞っていくプロセスと、一点に集中したまま徐々に圧力を高めていくという、2つの道がある気がする。自分は最初は後者だったが、この10年くらいは前者になってきて、放射を一点集中するのがなかなか大変。この感覚は、他に見向きしないで、ひとつのことだけずっと興味持ち続けられる人にはわからない感覚だろうな、とも思う。例えて言うなら、最初はホースで水だしていたんだけど、途中からホースでは水圧を抑えきれずに水栓からホースが外れちゃった感じ。このコントロールが難しい。

不確実性を受け入れると口では言っていても、「成功か失敗か」の不確実性は受け入れられているだろうか?成功に執着しているから、正しいやり方にこだわり、正解を求めてしまうのではないか?外部の正解を探し求め、権威の意見を正しいと信じる。そのような姿勢は不確実性を受け入れてると言えるのか?