夕方河川敷走ってきたけど寒かったなぁ。久しぶりの肌がピリピリする感覚。今週末の山遊びはどうなるんじゃろか。。。BUFFを口元につけててもぶら下がってくるので新しいの買ったほうがいいかな?(うちのBUFFは全部レースの参加賞)

いろいろデスク周りの什器買うのもいいけど、やっぱり自分で自作したほうがしっくりくるのが手に入るよなぁ。製品を参考にして自作していくのが良さそうだ。時間がかかるのが難点だが、それも含めて楽しむことでより最適な環境になっていくんだろう。まずはスタンディングデスク下の棚でも作ろう。

iPad Pro + Keyboardは悪くないんだけど結局できないことも多かったりブラウザの挙動が異なるので結局Macに頼らざるを得ないことがある。軽くて手書きができてキーボードで打ててSIMがさせて速いMacbookが欲しくなる。「それSurface Pro」とか言われそう。

ちゃんと100km走ってみたのは偉い。走り方を学べば100kmはサンダルでも走れるんやで。 news.yahoo.co.jp/articles/…

BigSurで外部4Kディスプレイが1080pでしか認識されない件はPRAMクリアで治りました。ああよかった。原因はよくわかりませんが。MacOSXで困ったらPRAMクリアというのは伊達じゃない。

MBP16をBig Sur 11.1 にしたらつなげてる4Kディスプレイが 1080pにしか認識されなくなってしまった。たまに治るけどたまにおかしくなる。条件がよくわからない…つなぎ直して治らない時どうすればよいのか? 字がでかくて見やすいが32inchなのでもう少し小さく…

言葉だけではなく態度で示すということは、その人が信頼足る人物かを示す大きな指標である。ここで「料亭から料理を宅配してもらってリモートで会食」となってればまったく印象が違うと思う。t.co/BsdhmksO9…

Drafts はスクリプト使うことでブログもツイートもScrapboxも全部ここから投稿できるので色々捗る。またMacもiPhone/iPadも同じ設定・スクリプトが同期されるので個別で管理しなくていいのが嬉しい。

モチベーションが上がらないのを無理やり上げようとしてもエネルギーロスではないかと思っている。低空飛行なりの過ごし方を考えるのがいい気がしている。ある程度は試行錯誤してもいいけど「モチベーションをあげなければならない」という無限地獄に陥らないようにしないと。内なる声を聞こう。

…というように、『サピエンス全史』を読み直していて「問題は解決しないとけない」という認知の枠組みの変え方として仏教の視点の切り替え方は使えるのかもしれない、ということに気づいた。

問題を解決しようとするのではなく問題と認知する枠組みを変える。仏教において苦しみの根源を苦痛ではなく一時的な感情の追求そのものに目を向けたことに等しい。感情に一喜一憂するのではなく味わって受け入れる。問題も解決するものではなく味わうものとして受け入れるとどう変わるか?

なぜ大事? SDH(健康の社会的決定要因)の視点 千葉大学教授・近藤克則さんに聞く – 全日本民医連

もうひとつは、「ハイリスクアプローチの限界」です。健診などで高リスクの人を拾いあげても、その行動を変えることは難しいと分かりました。「病気になっていない人たちへの健康指導は効果がない」というエビデンスも出ました。

ハイリスクだけは人は動かない。

コンマリがルールによる片付けだとすると、セシリアのは形態のパターン(パーマカルチャー原則)による片付けだなぁ。トヨタの5Sの影響もうけてるみたいなのでそこも面白い。

セシリアの冷蔵庫片付けはルールではなくパターン(エッジ効果)でできてる。美しい冷蔵庫とはこれ!! Permaculture’s ‘Edge Effect’ for a Decluttered, Delightful Fridge

をNotionの記事が!と思ったら、@0310lanさんの記事だったw bit.ly/3oTi9iH

表現することと行動することは等しい。行動が表現であり、表現が行動であり、生き様こそがその人の表現であるとするなら、生きてきた軌跡の結果であるその人こそがまさに表現なんだろうね。悩み苦しみもがき足掻いてきたプロセスの積層こそがその人の表現(=アート)なのかもしれない。

ScrapboxとNotionでは使い分けができそうだが、Notionをまだよく知らないので使い分けできないなぁ…

多くの問題は人が感情・感覚を抑圧したりして使い方を忘れてしまったからではないかと感じる。技術に依存し感情・感覚という自身の測量機械を使わなくなったせいとも言える。感性と論理の両刀遣い、どちらかではなく両方を50:50で使うように訓練する必要があるのだろうなぁ。

結局の所、自分がずーっと興味をもってきたのは「いのちをどうやって育むか」「いきいきとさせるか」というところに帰結しているということに気づいた。生き物、ソフトウェア、チーム、環境、自分自身、社会、子供、etc… 最終的にその向かう方向はどれも同じだなぁ。

「改善しないといけない」というのも「ありのまま」を見れていないことで「何かが欠損している」という評価判断していることになるのかな。「このままではいけない」と感じるのを「そうなんだね」とみていることができれば「ありのまま」だけど「なにかしなくては」となるとそうではない。

「ありのまま」をうけとめるということがどれだけ難しいかという話を聞いている。何かが足りない→次になにをしなくちゃという時点でありのままを見ることが出来ていない。評価判断を保留することができていない。

外部環境に合わせるだけでは環境適応とは真の意味ではいえず外部環境に合わせる前に自身のいのちに目を向けなければならないのではないか。つまり内へと目を向けろということ。内面を見ないまま外界ばかり目を向けていても本当の意味で「生き切っている」ことにはならないのではないか。

過去に決めたことを状況に応じてその時点に適したことに変更しないというのは「意志貫徹」なのか「変化不適合」なのか?

イオンのイートインスペースで歌の練習してる女性はかなりカオスだった。そりゃ音楽店内に鳴り響いてるからそれほど気にはならないけど、どこから音がしてるのか気になって探してしまった。

M1 Macは来年に持ち越しにして年内にグラベル買おうかな。四国横断企画の準備をしよう。。。